伝説の名鐘 一光明山無量壽寺十六世釈円順(圓順)
時代は江戸、号は元禄。天皇は東山天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。
「光明山無量寿寺開基以来由来記~當山住職世代」
当山住職 第十六世 圓順(円順)の代なり。
(河合 枕石寺ヨリ来る)
寺梵鐘願 富田無量壽寺住職、弟子寺光照寺雲照寺二ケ寺、
惣代一名、各村御門徒有士四十七名、仏恩報恩報謝信心御志賜る
元禄六年(1693)竜集発酉八月十九日
江戸神田鋳物師小沼播磨守作の鐘音
有縁無縁聴く者の耳深く染み入る美音なり
二百五十年星霜経富田村近隣村々響き渡。
その後時代は昭和戦時中、お国の為に梵鐘を供出せよとの命令に、
供出せねばならなかった寺院御門徒衆のお気持ちは如何ほどであったろうか。
当時日本国土を覆っていた有無を言わさぬ状況に抵抗することは許されなかったであろう。
現在、富田の寺の梵鐘は、供出の後、四十年後に製作されたものである。
代は変われども、ご先祖の縁厚く信心深きご門徒様方より御志賜り奉納されたこと、
ご門徒様方の御心真に有り難いことと胸に深く刻む。
今、この時に、伝説の銘鐘が甦ったのも、昭和十八年十二月供出後、
しばらく放置されていた富田の鐘に気付き、銘を書き写して置いてくださった方々のおかげである。
又、元禄時代、梵鐘奉納にご尽力くださったご門徒のご先祖様有士四十七名、
十六世住職、順信房弟子寺雲照寺、光照寺の御存在に出遭うことが出来た。
また、そのご子孫の方々は今も、お寺に尽力くださっておられる。
なんという尊いご縁なのだろう。
真に有り難く心より御礼を申し上げる次第である。
その方の寄稿文一部抜粋して記させていただいた。
有縁無縁の鐘
『 幼い頃の懐かしい思い出の一ツに朝に夕に近くのお寺の鐘楼から突き出す鐘の音であった。
七十年前の農村の各家庭風習は現代社会の生活とは程遠いものであった。
信仰心が多分に訓致されて居た故か老いも若きも共々に、祇園精舎の鐘の音は諸行無常の響きあり。
がそのものの暮らしであった。明け六ツ(午前六時)暮六ツ(午后六時)四ツ(午前二時)の鐘は
遊里に一夜の春を求めた若衆が春宵一刻を惜しんだ心根であろうが。
今世代の若い人々は、これとは生き方が異なってると思う。
私の生家から南方五百米下富田に真宗光明山無量壽寺と称するお寺がある。
この無量壽寺の梵鐘の音響は実に美しい音色であった。
私は七十年来この鐘より優れた妙音の鐘の音を聴いたことが事がない。
長ずるに従って鐘に魅せられる様になり、その後妙な羽目で無量壽寺の鐘に兄弟が
有る事に気づいたのであった。
昭和四十六年の夏のこと東京都品川に住む相沢悦二さんが故郷の新潟県糸魚川に帰った処、
同地で武州足立郡舎人町菩提山西門寺と在銘の半鐘を発見して帰京、
直ちに西門寺に知らせ、二カ月後に半鐘は同時に帰った。
当時の記事に依れば江戸神田鋳物師小沼播磨守の品は神田明神の火鉢と西門寺の半鐘しか無い品として、
貴重であると記載されてあった。
私は十一月のある日西門寺を訪れ住職島崎義雄師に逢う。師は鐘の供出時を回想して
彼の時は哀しかった。生者心滅、鐘は潰されずに生きて居た。
二十七年振りで戻って参り有り難い事でと申された。
これを聞いて私の胸に去来するものがあった。この鐘に兄弟がある。鹿島郡と行方郡に。
一つは健在一つは行戸不明である。
一六八〇(延宝八年)行方郡玉造町加茂笠掛山神宮寺宝 院。
一六九三(元禄六年)鹿島郡鉾田町下富田無量壽寺。
一七〇〇(元禄十三年)東京都足立区舎人町西門寺。
茨城県鹿島郡鉾田町下富田真宗光明山無碍光院無量壽寺
鐘名
銘口
一、横脱那響協宮商省發現衆寧息冥方外魔落論賢聖降 徳音普應地久夭長
伏乞
天下和順日月清明風雨以時災励不起国豊民安兵丈無用
維元禄六年竜集発酉八月十九日
光明山無量壽寺第拾六世願主釈圓順
願主 三宅惣九郎
下富田村
雲照寺
光照寺
井河傅右衛門 井河寿賛 悉地(智)加兵衛 日次郎左衛門 井河久右衛門
藤主藤右衛門 井河勘左衛門 井河五郎兵衛 井河陽元 河島雅之助
井河氏妙宝 富田庄兵衛 重藤善左衛門 富田七兵衛 重藤十左衛門
河島市郎左衛門
上富田村
新堀浮円 大庭吉郎衛門 大庭妙榮 大庭妙貞 重藤次左衛門
長峰次衛門 大庭妙照 富田浄榮 □沢五郎左エ門 □沢妙信
塙八郎左衛門 塙孫兵衛 石田助右衛門 石田半兵衛 石田内儀
遠藤家元 長峰清左衛門 大庭七郎兵衛 遠藤雅之丞 遠藤内儀
富田新左衛門 富田内儀 重藤十右衛門 新堀右衛門 遠藤還面
長峰庄兵衛
菅野谷村
富田孫左衛門 富田七郎兵衛 新堀右衛 新堀庄兵衛
江戸神田住御鋳物師小沼播磨守 藤原正永
追記 昭和十八年十二月戦時中供出再び戻らず
尚私の懐かしい無量壽寺の鐘は昭和十八年の暮れに鐘楼から胞され巴村役場の入り口に放置されてあった。
その時に鐘銘を書き写して置いたもので製作年月日も明瞭になっている。
只今ではこの記帳も貴重なものである。
現住職(故二十六世住職)の父僧は戦前より鐘を失うまで、時の鐘を農家の人々に伝えた。
亦老師の読経は聖僧そのもの音声で聞く者感喜の涙にむせぶものがあった。
その老師今や無し、
朝夕余韻条々と農村へ列を伝えた名鐘は行きて再び戻らず。
音響耳 に残る初老の人々今幾人か在る。
記帳は残れど名勝の音律は永久に消え、有縁の鐘伯叔は残り。
無縁の鐘中の消滅を哀しみて筆を擱く。』(昭和五十三年)
南無阿弥陀仏
2019・2・8記
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