光明山無量壽寺縁起

。。。。。。お寺の縁起。。。。。。。

当山の開基は、宗祖親鸞聖人の弟子「順信房」である。俗名は、信広という。
父親は、常陸国鹿島明神(鹿島神宮)大宮司であった、片岡尾張守藤原信親である。
順信が、親鸞聖人の、お弟子となられたのは、鹿嶋明神が、 親鸞聖人に帰依したことを、
大宮司の父親、信親が知り、稲田の草庵に、親鸞聖人をお尋ねし

吾身は、 明神にお仕えし、吾子は、佛にお仕えさせたまえと、

申し出たことにより、親鸞聖人にお弟子になることをお許しいただいたと伝えられている。

その後、信広は、法名を「釈順信」と名乗った。
親鸞聖人は、稲田に滞在中、広くこの地方の教化に努めた。
鹿島、行方地方の教化の時は度々鹿島神宮に参詣し、
その往復路には、巴川流域の富田の地、塔の峯(塔山)に草庵を建て、 休憩所とされた。
天明七年(1787)、文化十三年(1816)二度に渡る出火昭和四十年、鉄筋コンクリート瓦葺に再建、今日に至る。

寺宝

光明本尊  関東離別の聖人像  女人往生証拠幽霊図
開基の父神官像  聖徳太子像 観音如来像  九字名号掛け軸

無量壽寺縁起親鸞聖人が稲田に移り住まれた頃、
人々は教えを乞うため、稲田の草庵に日参りしていた。その中に白髪の老人の熱心な姿があった。

ある日、百日間の日参りを終えた白髪の老人は「吾もお弟子の中に御加えあられかし」と親鸞に申し出た。
親鸞は、これを快く受け、法名を釈信海と名付けたのである。思わぬ親鸞の言葉に老人は大喜びで立ち去った。

ところがこの老人は、鹿島神宮の化身であったことが判明。
人々からこの話を聞いた宮司の信親は、驚いて戸長を開いてみたところ「信海」という法名が書かれてあった。
「これは明神が稲田の聖人に帰依したからに違えない」と、あらためて聖人の偉大さに感じ 稲田の草庵に聖人を尋ね、

「吾に一子あり。不詳の者ながらお弟子になしたまえしか、「吾身は明神に仕え、一子は佛につかえさせたまわん」と申し出た。

これを聞いた親鸞は、弟子となることを許し、法名を順信房と名乗り、鹿島、行方地方で教化に励んだのである。

「光明山無量壽寺 沿革」より