巴村と巴川の由来

「新編常陸国誌」

「源ハ茨城郡岩間村ヨリ出ズ、郡中を経歴ㇱ片倉村の北より ヤク南流ス、
此辺屈曲シテ委蛇タリ、因テ俗九十九川ト称ス、下吉影村の東に至りて巴川トナル、
巴ヲ以テ名トスルモノハ水流屈 シテ実二巴文に似タルヲ以テナリ、
ココヨリ行方、鹿島二郡の間を経テ、古ハ行方ノ内二テ鹿島ヲ経ズ、
當摩村ノ西南ヨリ流海二入る、コヽヲ當麻川トモ云、        烟田文書」

「鉾田町の今昔」(昭和三十五年四月一日発行)

巴村

沿革
巴村は十三カ村 合の中より、明治二十二年四月、
町村制実施の際同二十三年五月茨城県令第十二号を以て、
紅葉村、大和田村、菅野谷村、上富田村、下富田村、鳥栖村、
当間村(坂戸村、寄居村、車作村、新里村を併せて当間村という)の七旧村を合わし、
旧村名を大字にし、巴川名を冠して明治二十三年巴村と改称し、
昭和三十年三月十五日合併まで及んでいた。

巴川の由来は、その流れが行方郡旧秋津村青柳付近の、
鹿島、行方、東茨城郡の三郡の三叉衝点の辺り、
もと下富田無量壽寺の在った霊地の円い丘阜(塔山という)の下に
川の流れが曲流、巴の如き形となるところからこの名が出来たという。

河川
巴川は源は茨城郡岩間町に発し、東茨城郡を過ぎて本郡に入り、
巴村の南境に沿い、鉾田町、塔ヶ﨑に至り北浦に入る。
流程約七里余、九十九の曲折があって往時は唯一の水運の利便をなせるも、
今は耕地整理によつて直流し沿岸は何れも美田と化し、
ただ雨時は鉾田の増水の甚しいことがある。

そもそも巴川は源を西茨城郡岩間の愛宕山に発し、鹿島郡北部に注ぐ。
その間紆余曲折巴状を為し(九十九曲ありしと)延長十里三十一町余、
鹿島郡鉾田町(旧巴村、行方郡秋津村)東茨城郡小川町(旧白川村)三郡一町三ヶ村十五大字に亘り、
広袤東西四里、南北二町乃至十町、総面積六百二十八町余り歩の涵養と流䟽を支配しており、
一霄霖雨に会せば一朝悪水汎濫大湖と化して禾穀稔らず。
水田の収穫全く滅びて住民の困憊絶後のものあり。

等しく之を患うること久しかりしが、
たまたま大正八年沿岸有志相会して議すること再三に及びしが
愈々議熟して全域を劃しての耕地整理組合を組織し巴川の改修と高知の整理を企画断行して、
大正十五年十一月遂に竣工せり、その設計は河身を拡めて通し阡陌を八達せしむ。
更に堰 を新設して灌漑に利し揚水機を新営しては湛水を排除し、
往年の水旱雨害を根絶して面目を一新し隔世の感あり。
投資実に四十六万余金 うといえども本作の増収は勿論裏作可能となり、
地の開拓、労力の節減等その利益叉筆舌に竭し難く、
真に改修整理の実を挙げ時局を境地匡救し、農村更生の基礎を築くに至る。