伝説の名鐘 二 悉地加兵衛傅記
富田無量壽寺の伝説の名鐘の記録(伝説の名鐘一)は、大きな喜びと感動をもたらしました。
その余韻も醒めないうちに、更に尊い事実に出遭うことが出来ました。
誠に不思議なご縁でございます。
それは、当時の梵鐘寄付者のお一人、悉地嘉兵衛さんの消息についての記録でございます。
今は亡きご門徒様がご子孫の為残された「先祖代々の傳記」ノートから
「悉地嘉兵衛傳記」の付記が見つかりました。(2019年2月)
伝説の存在であった悉地嘉兵衛さんが現実に実在した方であったとわかり、
ご門徒様は記録をのこされました。(昭和46年(1972)8月3日)
梵鐘の製作年代(元禄六年・1693年)により、
現在(2019年)から、およそ320年前の頃のことでございます。
嘉兵衛さんのお人や、嘉兵衛さんに対して温かいまなざしの行いを知ることでございます。
「悉地嘉兵衛傳記」
『 此の人は傅記に依れば当富田家の前畑、現在字名嘉平前に居り
現在墓地のみぞの面影を残しのみ。生前の一説によれば
「セッカチ」なる故、畑の作業に鍬を忘れ、
これを見た烏「カヘエクハー」と、二、三回なきし、
知らせを聞き、気つき、鍬を持って作業に出た、
という傅説があります。
これにより現在残れる円形の墓印が悉地加兵衛の墓である事は想考する事が出来ます。
而し此度これを説明する記録が分かり、以下、順を追って列記しませう。
彼は思ふに孤独にて一人暮らしの身分にて
いつの時代、現地に落ち着いたかは不明なれと、其の子孫が現存していないのを
考えても分かります。
それではいつ頃の人か知る必要があります。
次に述べる卩は下富田に建立せる光明山無量壽寺梵鐘に刻まれており
それに依りますと、元禄六年八月十九日有志の寄付により梵鐘が出来たことが
明確になりました。
序に梵鐘について申し述べて見たいと思います。
現在この梵鐘は形なくこれは大東亜戦争中軍需品に加工する為供出したのであります。
この当時外した梵鐘を道端に置いた当時、当部落の方が全部筆記してありました。
当光明山無量寿寺現在形なき梵鐘に刻まれてあった事実により
伝説の無証明より確実なものになりました。
つきまして伝説を基とし此の度立証せる資料等により益々明確となり
ここに建碑を思い立ち、供養し後世に残すものであります。
梵鐘の刻銘により、元禄六年八月十九日有志の寄進により梵鐘が出来、
その時代まだ生存していた事が分かります。
では、何時死亡したのか不明にてなんの記録もなく、現在に到って居る次第なり。
寺鐘が出来たのが、今を去る約二百七十八年前となります。
この時、悉地加兵衛なる人は存命であった事は確かです。
その後、何年生存していたか不明であります。以上述べた通り、梵鐘の刻銘により
判明しました。
ではこの時代を参考までに延べることにしませう。
この寺鐘が出来たのは、亦、寄付したのは、撰述の通り今を去る約二百七十八年以前
東山天皇、将軍徳川綱吉五代将軍の時代、義士仇討以前のことなり。
思うに現在畑地名は嘉平前からしてもその事実を立証するものであります。
いつの世か字(あざ)をかえつけたものと思われます。』
昭和四十六年(一九七二)八月三日
富田家十代の孫 稔
○〇〇住職から〇〇○
※悉地嘉兵衛さんの姓をお調べしたところ、大変貴重な数少ない姓でありました。
姓の意味は、「密教で修法によって成就される境地、成就した悟り。」ということです。
富田無量壽寺興りの塔山も、古来から霊峰と呼ばれていた地だったそうですので、
親鸞聖人様がおいでになる以前、塔山の古い歴史と関係があるのかもしれません。
※字(あざ)とは、地名表示である
※また、嘉兵衛さん亡き家屋跡地は、「嘉平前」の字、地名として現在も下富田地内に残っております。
この度の尊い記録からも、時代と空間を超えた心温かい出遭いと発見がございました。
いのちの不思議なおつながりを有り難く心に頂き、
ご子孫の為に先祖代々の傳記を記された、故ご門徒様の大切なノートをお借りいたしまして、
悉地嘉兵衛さんの記録をお伝えさせていただきました。
南無阿弥陀仏
(2019・3・3記)
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